Netflix 『火花』 感想
Netflix製作のドラマ「火花」を見た。
いわずと知れたピース又吉原作小説のドラマ化。
売り出し中の若手芸人、徳永の日常を中心に、幼馴染の相方、所属事務所の人たち、そして敬愛する先輩芸人神谷など、個性溢れる面々が登場し織り成す青春物語。全10話で、基本的に1話1年のペースで話は進み、鳴かず飛ばずの時代を経て中盤でブレイクの兆しが見え始めるが、同時に周りの人との関係も徐々に変わっていき…という展開になっていく。
時にとても長く感じるノーカット長回しや、緩やかでとりとめのない日常の風景がこれでもかと続いていくが、そのなんでもない時間の積み重ねこそが本当に必要なものだったのだったのだと気づかされるラスト9話10話の威力。8話までの時間を徳永たちと一緒に過ごしてきた視聴者だけが体感できるエモーショナルの洪水が最後の最後にやってくる。
このあと後輩・徳永と飲みに行けることが嬉しくてたまらない、先輩・神谷のニヤけすぎな笑顔をどうぞ。
— Netflix『火花』公式 (@hibanajp) July 26, 2016
Netflixオリジナルドラマ「#火花」全10話配信中 #波岡一喜 pic.twitter.com/JIPdlF887r
徳永の言葉「僕は神谷さんに聞きたいことがたくさんあった。この人が全ての答えを持っていると思い込んでいる節が僕にはあった」先輩に対するこれ以上ない信頼を的確に表す言葉が他にあるだろうかと思ってしまう。全ての答えを持ってる…。
2話時点では光の存在でしかなかった先輩神谷。でもこの後、スパークスがお笑いのコンテストをきっかけに徐々にブレイクし始めるのに対し、批評家受けを気にせず先進的な笑いを求め、破天荒な私生活を送る神谷は活躍の場を失っていく…。徳永が神谷を神聖視することで救いを得る一方で、神谷は自分が高みにいないといけないというプレッシャーにされされ、2人の関係のバランスが狂い始める。
今日の野外(めし)フェスは、いせやのしゅうまい。
— Netflix『火花』公式 (@hibanajp) July 22, 2016
Netflixオリジナルドラマ「#火花」全10話配信中 #林遣都 #波岡一喜 #井の頭公園 #野外フェス pic.twitter.com/EA7ffXAVXk
初見では何の気無しに見ていたけど10話まで見終えた後に振り返ると、なんて希望に満ち溢れた時間なんだ…!と涙腺が緩む。前半はとにかく同様のシーンが多く、最後まで視聴して初めて、この「一見何も起こってなさそう」なシーンの積み重ねが年月の経過を感じさせるためにものすごく大事だったんだなと気づく。「時間の経過」という点では、所属事務所の日向企画の人たちも、登場ごとに髪型や服装が僅かにアップデートされていて、彼らの人生の一片も感じさせるのが丁寧でいい。ライブを見に来るお客さんもちゃんと初期から追ってる常連さんが後半にも続けて登場したりして、ティテールの素晴らしさをここにも感じる。
徳永と神谷の携帯メールの送り合い。
カノン進行のお経
三畳一間に詰め込まれた救世主
バックドロップ by マザーテレサ
彼女と瓜二つの排水溝
エジソンが発明したのは闇
エジソンを発明したのは暗い地下室
周りから隔絶された世界で2人だけの共通言語を使ってコミュニケーションする様子がが何ともロマンチックだと思った。ナンセンスな言葉の駆け引きがもたらす高揚感。布団に入って携帯の画面をみる、そのバックライトに照らされた徳永の顔が美しい。
スパークスの移動は、やっぱり自転車だ。
— Netflix『火花』公式 (@hibanajp) July 15, 2016
Netflixオリジナルドラマ「#火花」全10話配信中 #林遣都 #井下好井 pic.twitter.com/Luw93776UO
相方の山下はもっぱら自転車に乗ってるけど徳永は歩く。移動にお金を使いたくないとか、街の人の会話を聞きながらネタを考えてるとか理由はありそうだけど、とにかくこの歩くシーンがよい。吉祥寺の飲み屋街や井の頭公園、三軒茶屋から二子玉へ向かう246沿いの道、記憶をひとつひとつ刻むように存在する街並みも、徳永たちの青春を彩る大切な要素のひとつのよう。
10話で漫才をやめて不動産屋に就職した徳永は自転車にも乗るし、営業車を借りて自分が10年間過ごした街並みをドライブする。山下と喧嘩しながらネタ合わせをした児童公園、神谷と飲みに行くのに待ち合わせした吉祥寺の駅前のベンチ、神谷と真樹と初詣でした神社、あの頃はあんなにいきいきと脈動していた街並みが、一気にがらんとした見知らぬ場所のように見えて、街の一部だった徳永がもうそこに属していないんだという強烈な寂寥感に襲われる。
神谷の銀髪
神谷が銀髪にするシーンはとても衝撃的で、徳永の行きどころのない感情を思って胸が苦しくなるのだけど、あの時、神谷は徳永に「なんでやねん」と言って欲しかったのではないかと考えていた。笑いを追求するためにどこまでも自分と距離を置いて、すべてを客観視する神谷だから、後輩に追われる立場になってしまった自分の姿を滑稽に演出したかったのではないか。でもあの時の徳永は売れていくスパークスの姿に戸惑いを感じていて、そんな先輩の姿を受け入れられる余裕はなかったし、神谷自身も、自分のプライドを前に最後まで2人の師弟関係を崩すことができなかった。あそこで2人の関係が変わっていればあるいは2人とも笑いを続ける道もあったかもしれない…と思うのはほんとうに考えても意味のないことだけど。
豊胸手術を施して徳永の目の前に現れた神谷は、ずっと自分が迷っていたことをやっと告白する。そしてついにずっと自分自身が持っていたわだかまりを徳永に伝えることができた。徳永も、漫才をやめてはじめてかつての師匠に「なんでやねん」と突っ込むことができた。どうしても、どうしても、器用に生きることができない人たちがたまらなく愛おしい。
あの飲み屋でのやりとりを経て、熱海を旅行する2人の姿はとても自然体。神谷はもう体裁を保たなくてもよく、いろんな不安を気安く口にするし、徳永も今までに無いほどリラックスした表情を見せている。かつて師弟関係の時にあった特別な輝きはもうないように見えるけど、それでもいいんじゃないかなと思える。徳永が最後に語った言葉がそう示しているよう。「神谷さんはやかましいほど全身全霊で生きている。生きている限りバッドエンドはない。僕たちはまだまだ途中だ」徳永は新しい「神谷伝説」のページを記している。
ライアン・クーグラー監督のインタビュー
NYのヒップホップラジオ局HOT97にクーグラー監督がゲスト出演した時のインタビューは、監督のアフリカ系アメリカ人としてのルーツに切り込んでいく内容でとても面白かった。(ブラックパンサーのネタバレしています)
(以下インタビューより抜粋)
「フルートベール駅で」を監督した時、「なぜこんなことが起きてしまったのか」という疑問を作品にぶつけたように、「何かに対して深く知りたい」と思った時、より効果的に作品作りができる。ブラックパンサーでは「アフリカ人である、ということにどんな意味があるのだろう」という疑問が中心にあった。今もその答えを得てはいないけど、今まで関わったどんなプロジェクトよりも一番核心に近づけたと思っている。
アフリカ系アメリカ人は、自分たちとアフリカの間を隔てる距離にたくさんのやりきれない思いを抱えている。自分たちのルーツがアフリカのどの地域、どのトライブ(部族)であったのかもう知る由も無い。長い歴史の中で多くのものが失われ「アフリカとのつながりをなくした」と言われていたし、自分もそれを信じていた。アフリカ行くまでは。
映画を監督するにあたり初めてアフリカを訪れ、たまたま現地の人が開く儀式のようなものに参加する機会を得た。その儀式に集まる人たちの様子、男性たちの集まりや、女性たち、若者、子供、みんな行動が自分の地元の家族の様子ととてもよく似ているのでびっくりしていたら(現地の人に)「当たり前だよ、だってあなたはアフリカ人だから。なんで途切れたと思ってるか知らないけど、これは何千年もずっとやっていることだから」と言われた。
完全に失われたと思っていた自分とアフリカとの接点、それは家族が受け継いでくれていたものだった。子供の頃、おばあちゃんが、テキサスから逃れてオークランドに移り住んできた時のことを話してくれたことを覚えてる、そんな風に日常で語られる物語の中にアフリカとのつながりがずっとあったんだということに気づき、家族へ感謝の気持ちが湧いた。
(意訳)
このインタビューを聞いてると、お母さん、お父さんと早くに別れ、自分の故郷について聞く機会を失ってしまった彼の事考えて、胸がぎゅっとする。